芳香族とは不思議な化合物です.「芳香族」という呼び名は,19世紀ごろ知られていた芳香をもつ化合物の共通構造であったことに由来します.匂い(芳香)は芳香族化合物の特性ではありません.
またベンゼン環は代表的な芳香環ですが,ベンゼン環を有することが芳香族である条件ではありません.実際に,
- サイズの異なる環
- へテロ元素を含んだ環
- カチオンやアニオン性の環
など,ベンゼンとは大きく異なる環構造を有する化合物でも「芳香族」に分類されるものがあります.
それでは「芳香族」とは何でしょうか?
大学学部レベルの教科書では,
- 不飽和二重結合を有するが,付加反応ではなく置換反応が起きる
- ベンゼンにおいて結合距離が全て同じ
- 通常の不飽和炭化水素と比べると燃焼熱が小さい
といった芳香族化合物の構造的・化学的特徴が記載されています.また環状π電子の数が4n+2ならば芳香族という,ヒュッケル則(Hückel’s rule)に関する記載もあります.
「芳香族性」は化学における基本的な概念ではありますが,直接測定可能な性質ではありません.そのため,上記のような性質を複合的に調べることで芳香族性を評価するのが普通です.
芳香族性を評価する方法のうちの1つが,計算化学を用いた手法になります.特に新しい化合物を合成して性質を調べる構造有機化学と呼ばれる分野で発達してきました.
今回は特に
- 環中の結合距離
- 環構造に起因する遮蔽効果
に着目した方法を用いることで,どのように芳香族性を評価するかを説明していきます.
HOMA:結合距離の評価
二重結合と単結合が交互に連なるケクレ型の構造とは異なり,実際のベンゼンのCC結合距離はすべて同じです.芳香環のこういった特性に着目して,結合距離の観点から芳香族性を評価する方法があります.
最も有名なものは,HOMA(Harmonic Oscillator Model of Aromaticity)と呼ばれるものになります.
$$ HOMA = 1 – \frac{\alpha}{n} \sum_{i}^{n} \biggl( R_{opt} – R_{i} \biggr) ^{2} $$
HOMAでは「理想的な結合距離」と実験または計算により求めた化合物の結合距離との差を計算していきます.全ての結合が理想的な値と一致する場合に「HOMA=1」となるように規格化されています.
いくつか例を見てみましょう.
<出典:Chem. Rev. 2014, 114, 6383.>
HOMAは結合距離さえわかれば簡単に計算できますが,「理想結合距離」の取り方が恣意的な点が欠点になります.最初の発表以降,取り入れる結合種類を増やしながら適用範囲の拡大が行われていますが,基準化合物も変わることがあります.
その他の問題点としては実験・計算のいずれの方法で構造を得るにせよ,信頼のおける構造が必要となりますが,
- 用いる実験手法や計算レベルによって構造が変わってくる
- 分子間相互作用によって結合距離が変わってくる可能性がある(X線構造など)
といった点が挙げられます.
NICS:遮蔽効果の評価
有機化学者にとって,芳香族化合物のπ電子に由来する磁気の遮蔽効果については馴染み深いと思います.この環電流の遮蔽効果の程度を測る手法がSchleyerによって提案されたNICS(Nucleus-Independent Chemical Shifts)です.
芳香環の中心では強く遮蔽され,反芳香環の中心では反遮蔽化されます.シクロヘキサンのような非芳香環では遮蔽効果はゼロとなります.
具体的には空間内のある点において,仮想原子(ダミーアトム)のケミカルシフトを量子化学計算によって計算します.ダミーアトムは,環の中央に配置します.重心ではなく中央です.得られた値を通常のケミカルシフトの慣習に従って正負を反転させて用います.
ダミーアトムを環と同じ平面に置いて計算したものをNICS(0),環に垂直に1Åだけ離して計算したものをNICS(1)と呼びます.同一平面上にダミーアトムを置いた場合には,環状置換基のσ結合からの寄与を受けやすくなるため,NICS(1)の利用が推奨されることが多いです.
その他にもいくつか異なるNICSが定義されています.以下に簡単にまとめておきます.
NICS種類 | 説明 |
---|---|
NICS(0) | 同一平面上の環の中心に置いたダミーアトムが受ける遮蔽 |
NICS(1) | 環の中心から1Å離した位置に置いたダミーアトムが受ける遮蔽 |
NICS(n) | 環の中心からnÅ離した位置に置いたダミーアトムが受ける遮蔽 |
NICS(n)π | 全遮蔽効果のうち,π電子に由来する遮蔽効果だけを取り出したもの |
NICS(n)zz | 全遮蔽効果のうち,z軸(環に垂直な方向)の成分だけを取りだしたもの |
NICS(n)πzz | 全遮蔽効果のうち,z軸成分のうちでπ電子に由来するものだけを取りだしたもの |
なおNICSπzzなどの計算には,NBO5以降で利用可能な「NCS (NMR Chemical Shielding Analysis)」計算を行う必要があります.そのため,NICS(1)などと比べると,入力ファイルの作成も含めて計算がやや面倒です.
またこれだけ色々な種類があると,「どのNICSを使えばいいのか?」と疑問に感じると思います.
「Which NICS Aromaticity Index for Planar π Rings Is Best?」という論文で,Schleyerらは
- どのNICS値も統計的に意味のある値を与える
- NICS(0)πzzが1番よい
- 次点で,容易に計算可能なNICS(1)zzがよい
と述べています.
とはいえ,(計算しやすさもあって)NICS(1)のみを記載している論文が圧倒的に多いように見受けられます.
最後に代表的な芳香環の計算値を下の表に載せておきます(GIAO/HF/6-31+G(d)レベル).
化合物 | NICS(0) |
---|---|
ピロール | -15.1 |
チオフェン | -13.6 |
フラン | -12.3 |
ボロール | 17.5 |
シクロペンタジエン | -3.2 |
シクロペンタジエニルアニオン | -14.3 |
ベンゼン | -9.7 |
トロピリウムイオン | -7.6 |
ナフタレン | -9.9 |
シクロヘキサン | -2.2 |
<出典:J. Am. Chem. Soc. 1996, 118, 6317.>
この表からも,
- 芳香族化合物では大きなマイナス
- 反芳香族化合物では大きなプラスの値
- どちらでもない化合物は0付近
となっていることがわかります.
終わりに
今回は「計算化学で化合物の芳香族性を評価する」という話題について,
- 結合距離に着目したHOMA
- 磁気の遮蔽効果に着目したNICS
を紹介しました.いずれも芳香族の特徴を利用した方法です.
芳香族化合物の他の特徴としては,「類似のオレフィン化合物と比べると安定性が高く,水素化熱が小さい」という点も挙げられます.
このような仮想の水素添加反応のエネルギー差を見積もることも,計算化学を用いることで簡単に評価できます.次回は水素化熱,芳香族安定化エネルギーについて,実際にPsi4というpythonの量子化学計算ライブラリーを使いながら説明していきたいと思います.
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